真の身内

小説家秦恒平さんの「闇に言い置く」というネット備忘録を読んでいたところ、それまでもやもやしていたものがすっきり晴れ渡るような感覚になった。「生きるとは何か」「芸術とは何か」その一つの答えがこの一文にあるように思う。

 人は「世間」という広い「海」に、投げ込まれるように生まれてくる。生まれると人は、自分の脚だけを載せられる小さな極限の「島」に一人で立つ。一人だけで立つ。孤独な、孤立。それが「生まれる」ということの真の意味だ。島から島へけっして橋は架からない。人は淋しくて他の島へ呼ぶのだが、橋は架からない。
それなのに、その筈なのに、気がつくと、一つの島、自分一人しか立てないはずの島に、二人で、三人、五人、十人で立っていると実感できる時がある。錯覚、極めて価値ある高貴な錯覚であるが、そのような錯覚あるいは絵空事の真実を、真実分かち合える同士が「真の身内」であり、人は、心の奥底でつねに孤独にさいなまれながら「真の身内」を求めている。あらゆる人間の劇、ドラマ、物語は、実はその欲求をこそ書いてきたし、書きつづけている。・・・・(中略)
わたしは小さい頃から「真の身内」が欲しかった。身内とは、一人でなく何人でも何人でも出逢いたい。本当に今もそう思っている。探し求めている。ただ一人の「真の身内」もないままに死んで行くのが、即ち地獄だと想っている。
わたしはこの「身内」観を、「島に立つ」というイメージで育ててきた。意識して育ててきた。私のこの身内観で感動の質の説明されうる世界の名作・秀作がどんなに数多いことか。「身内」を求める孤独と愛と歓喜、求めて求め得ぬ孤立と不幸と死。究極は、おおかたが、そこへ徹して行く。そこへ徹して行かないものは、どこかでチャチだ。作品に風がそよがない、命の叫ぶ声が聞こえない。

秦 恒平「闇に言い置く」より